HANS ―闇のリフレイン―
夜想曲6 Jugend
4 眼差す者
午後11時を回り、住宅街には殆ど人通りがなくなっていた。
ハンスが先頭を歩き、アキラと龍一がそれに続く。
「奇妙だな」
不意にハンスが足を止めた。
「何が?」
アキラが隣に来て訊く。
「風が動いていない」
静かに手を翳すハンス。
「でも、吹かない時もあるのではないでしょうか?」
少し遅れて来た龍一が訊いた。アスファルトに刻み込まれた凹凸を見つめていたハンスが振り向いて言う。
「そう思う?」
瞳は光を帯びて、少年を凝視する。
「……」
俯く龍一に代わってアキラが訊いた。
「違うの?」
「そうだね。答えは二つ。誰かが風を集めているか、それとも止めているか」
そう言うハンスの横顔を、脇から出て来た車のヘッドライトが照らす。
「流れを断ち切っている奴がいるのかもしれない」
ハンスは無表情のまま、何かの音を聞いていた。その間に遠ざかる車が影を引きずる。
「それって、能力者が近くにいるって事ですか?」
擦れた声で龍一が訊いた。
「それは……わかりません」
ハンスはそう言うと、音もなく動いて少年の肩をそっと掴んだ。驚いた龍一が慌てて一歩後退する。
「君はまだ、僕が怖いと思ってるの?」
ハンスが首を傾げると青い硝子に閉ざされた瞳の奥に、逆さの顔が分裂して見えた。
「いえ」
少年は目を伏せた。
「そう? でもね、僕だって怖いですよ。君が離れて歩くから、背中に視線を感じるです。君は見る者なのでしょう? 見えないものを見る眼差し。それが僕の心を寒くする」
街灯に照らされて二人の陰影が際立った。何処かで犬の遠吠えが響き、大通りを行くバイクの音が谺している。
「ぼくは、何も出来ません。力もないし、あなたの足手まといになってしまうんじゃないかって……それだけが……ぼくにとっては気がかりなんです」
龍一は上着のボタンを掻き合わせるように握った。
「足手まとい?」
ハンスが曖昧に笑う。
「いいえ、龍一。君は貴重な戦力になるですよ」
「戦力? でも、ぼくは……」
龍一が尻込みする。
「気付きませんか? 君はサイクロプスの目を持っている」
見開いた瞳は深い海の深淵のように見えた。
「サイクロプスって……?」
その言葉の意味をどう解釈すべきか、龍一は思案していた。
「それが、いつも僕をぞっとさせる。風がざわつくんです」
暗がりの中、電車の音が空間を切るように遠くなる。
「でも、龍一。君は奴と同じじゃない。能力のあり方が違うんです。君は風を無効化するのではなく、流れの渦に同化してしまう。それもまた、恐ろしい存在です」
微笑するハンス。
「どういう意味ですか? ぼくには、あなたがおっしゃっている事がよくわかりません」
「味方で良かったと言ったんですよ」
そう言うとハンスはようやく手を放した。
「ほんと、さっぱりわかんない」
会話に入れず、アキラは不満そうだった。
「そのうち、君にもわかるですよ」
そう言うとハンスは再び歩き始めた。子ども達も従った。が、50メートルも行かないうちに、ハンスは足を止めた。
「きな臭くありませんか?」
ハンスが問う。
「よくわからないけど……」
龍一とアキラも周囲を見回す。が、見える範囲にそれらしき気配はなかった。
「気になるな。僕、ちょっと見て来ます。二人は、ここで待っていてください」
そう言うと、ハンスは軽く跳躍してブロック塀の上に立った。それから周囲に人の気配がないのを確かめると、風を纏って一気にビルの屋上まで飛んだ。
「え? あの人、風もないのに、どうやって……?」
アキラが頭上を見上げて言う。
「彼は自分の中に風を持っているんだ。とてつもなく強い光のような……。でも、もしもそれが闇の風なら、って思うと、ぼくはとても恐ろしいんだよ」
龍一が唇を震わせて言う。
「でも、ハンスは、あんたの方が怖いって言ってたよ」
アキラがその目を覗き込む。
「ぼくにだってわかんないよ。サイクロプスって、随分特殊な力を使うらしいし……。ぼくにはさっぱりわからない」
一方、ハンスはビルの屋上から街を見下ろしていた。もしも異変があれば、ここからならすぐに気付く筈だ。微かな異臭は、2ブロック向こうのビルから感じた。が、ハンスはすぐには戻らず、上から子ども達を観察した。彼らは私服を着ている。学校にいた時には感じられなかった個性を纏った二人の人間。周囲にあるのは四角いマンションの群れ。それは切り取った夜のフラッグのようだと彼は思った。青い非常灯が屋上を照らしている。
「サイクロプス……」
仮面の下にあった顔は冷たく歪んでいた。
(奴は風を固定する)
風の能力者にとって風が呼べなければその能力は発動しない。内なる風も、呼び出した瞬間に固定され、無風化されてしまえば同じ事だ。
「ふう。いやな事を思い出した」
ハンスは振り返った。が、そこに伸びているのは自分の影。そして、非常灯。
「駄目だ」
彼は呟く。こんな日には、何度も振り向いてしまう。もうサイクロプスはいなかった。が、彼は未だその男の攻略法を思いつけずにいた。
「今度会ったら……」
微かに頬が震えた。
――自慢の水鉄砲があるだろう?
「水鉄砲か。それで倒せるなら……」
ハンスは、指で銃の形を作ると非常灯の光に向けた。それから、もう一度背後を確認すると風を纏ってビルから降りた。
「二つ向こうのビルです」
地上に戻ったハンスが指示する。
「連絡しますか?」
龍一が訊いた。
「まだ奴の仕業かわからない。連絡は確認してからでいいでしょう」
彼らは急いで現場に向かった。
それはすぐに見つけられた。そこは10階建てのマンションで、道路沿いには居酒屋があり、まだ明かりが灯っていた。が、大通りからは引っ込んでいるため、殆ど人通りはなく、辺りは静寂に包まれていた。
「火事なんてどこにもないよ」
アキラが周囲を見回して言う。
「8階です」
ハンスは一気にベランダまで飛んだ。僅か1ミリにも満たない隙間から煙が漏れているのを見逃さなかった。カーテンの隙間から覗くとベッドで男が寝ていた。その脇に煙草があり、それがじわじわと燃えていたのだ。
「奴の仕業じゃなかったのか」
それでも、彼は硝子を叩いて中の住人を起こそうとした。火は少しずつ燃え広がっていた。近くには雑誌やティッシュペーパーなどの紙があり、このままでは燃え広がってしまう。ハンスはベランダの硝子戸を外すと中に飛び込んだ。そして、眠っていた男を揺り起こす。
「起きろ! 火事だ!」
風に煽られて炎が高く上がった。
「か、火事だって?」
男が驚いて目を覚ます。
「み、水を……」
炎を見た男が喚く。
「そんな暇はない。その毛布を貸せ!」
ハンスは男がくるまっていた毛布を剥がすと炎に向かって叩き付けた。何度か繰り返すと火は沈静化した。その間に男がバケツに水を汲んで来た。
「大丈夫。もう火は消えた」
ハンスが言った。
「あ、ありがとう。でも、どうして火が……」
呆然としている男にハンスは落ちていた煙草の吸い殻を指差した。
「どうやらそいつが原因のようだ。寝る前にはちゃんと火は消してください」
「あ、ああ。今度からは気を付ける。それにしても小火で済んで本当に良かった。まだローンが18年残ってて……」
男は言い訳しながら焦げた毛布や紙を避けて顔を上げた。
「ところで君は……?」
しかし、そこにはもうハンスの姿はなかった。開いた窓から風だけが滑り込んだ。
ハンスが駐車場に戻ると、龍一達は一人の女と話をしていた。
「だからね、君達、まだ未成年でしょ? 駄目じゃない。こんな夜中に出歩くなんて……。どこの学校?」
詰問されて、二人は言い淀んでいた。女の方は後ろ姿だったが、その声はどこかで聞いたような気がした。
「困ったわねえ。今日は私、非番なんだけど、職業柄見過ごせないの。そこの交番まで一緒に来てもらうわよ」
彼女は婦人警官だった。
「ちょっと待ってください。その子達は僕と一緒です。大人が付いていれば問題ないでしょう?」
女が振り向く。彼女の顔はほんのり赤くなっている。アルコールのにおいもした。
「大人? あなた幾つ? 誤魔化しても駄目よ。婦警さんの目は騙せないんだから……」
彼女はかなり酔っているようで、足元がふらついていた。
「女性の一人歩きは危ないですよ。僕が送ってあげましょうか?」
ハンスが言った。
「何言ってるの、坊や。私は婦警さんよ。嘘言うと逮捕しちゃうぞ!」
その時、居酒屋からもう一人、別の女が出て来て言った。
「ちょっと、静(しずか)。そっちじゃないってば!」
が、静と呼ばれた女の方はまだ、彼らに固執していた。
「今、忙しいのよ! この子達がね、言う事聞いてくれないから困ってるの」
「えーっ! 今日は非番なんだから仕事なんて忘れてぱっと飲もうって言ったじゃない」
後から来た女が静の腕を引っ張った。
「ええ。飲むわよ。今日はね、もう思い切り飲むんだから……。でも、この坊やがね」
静がハンスをじっと見つめる。
「あれ? ねえ理恵子、この人どっかで見た事ない?」
いきなり酔いが醒めたように目を見開く。
「何だ。バウアーさんじゃない。ほら、美樹の彼氏の……」
理恵子が答える。しかも、彼女達を追って来た男の顔を見て、ハンスは笑った。
「キャンディー」
飴井の顔もかなり赤い。
「何? みんな知り合いだったの?」
アキラが大人達を見て言う。
「まあ、そのようですね」
ハンスが言った。
「何だ、知り合いなら、最初に言ってくれれば良かったのに……」
静は不満そうだった。
「僕は最初から気付いてたですけど、大分お酒が入ってたみたいだったので……」
ハンスがくすくすと笑う。
「いやだ。美樹には内緒にしておいてよ」
理恵子が口止めする。
「それは構いませんけど……」
ハンスは何か言いたそうに飴井を見た。
「昔の知り合いだ」
飴井は憮然とした表情で言った。
「へえ。昔のね」
ハンスがもう一度二人の女性を見比べる。
「静はねえ、飴井さんの彼女だったんだよ」
からかうように理恵子が言った。
「へえ。そうなんですか?」
ハンスがじっと彼女を見つめる。
「ちょっと、やめてよ、理恵子。もう昔の話なんだから……」
静が止める。
「まったくだ。もうそろそろ帰ろうか? タクシー呼ぶから……」
飴井が二人を促す。
「えーっ? 今夜は飲み明かそうって言ったじゃない」
二人が口を尖らす。
「じゃあ、店を変えよう。じゃあな。ハンス」
飴井はそう言うと二人を連れてそそくさと道を戻り始めた。
「ああ、よかった。もし補導なんて事になったら、結城先生に迷惑掛けてしまうし……」
龍一はほっとしたように肩の力を抜いた。
「ところで、ハンス、さっきの火事はどうなったの?」
アキラが訊いた。
「ああ。ただの小火でした。火は無事に消したので安心です」
「何だ」
アキラはつまらなそうだった。
「キラちゃん……。君は怖くないの?」
龍一が訊く。
「怖いよ。でも、わたしだって何か手伝いたいんだもん」
その時、背後から来た車が脇に止まった。
「遅れてすみません」
結城が窓を開けて言った。
「先生!」
子ども達が駆け寄る。
「アキラ、君は家で留守番してるんじゃなかったのか?」
「先生が来るまで手伝う事にしてたの。龍一だけじゃ頼りにならないから……」
言い訳するアキラ。
「大丈夫ですよ。僕が一緒だもの」
ハンスが笑う。
「でも……」
結城は顔を曇らせる。
「ぼくがいけなかったんです。一緒に行くと言われて、ついOKしてしまって……」
龍一が言い訳する。
「君だけが悪い訳じゃないよ。遅くなった僕の責任でもあるのだから……」
肩を落としている龍一を宥めると、結城はハンスに報告した。
「今、ざっと車でエリアを回って来たのですが、僕が見た限り、怪しい動きはありませんでした」
「そうですか。まあ、そう簡単に現れるとは思いませんよ。それよりもう、シンデレラは帰る時間じゃないかな」
ハンスが龍一達を見て言った。
「そうですね」
結城が時計を見て頷く。
「直人君はこの子達を送って行ってください」
子ども達は不服そうだったが、結城は彼らを車に乗せた。戻って来た結城とハンスは明け方近くまでパトロールを続けたが、その夜は特に怪しい動きは察知出来なかった。
不審火は3日と間を空けずに起きていた。無論、連続放火事件として警察の方でも監視を強化していた。が、犯人はそんな彼らの動きを嘲笑うかのように事件を起こし続けていた。犯罪心理学に詳しいルドルフが解析を行い、ある程度の範囲と時間を絞り込んだ。
そもそもの発端は2週間前。龍一が目撃したという不審な男の影だった。その男の周囲には闇の風が取り巻いていたという。
「ぼくは後ろ姿しか見なかったので、顔はわかりませんでした。でも、確かにその男の身体から炎が噴き出していたんです」
ルドルフは結城の家で少年から話を聞いた。
「でも、その男の姿は、突然闇に解けてしまったように見えなくなってしまったんです」
ドイツへの留学経験がある結城が通訳をした。記憶を辿って話す少年は僅かに青ざめている。それでも、龍一は一緒に捜索させて欲しいと言った。ルドルフは慎重策を取ろうとした。彼の父の病院が不審火に因って被害に遭った事を事前に聞かされていたからだ。
「もし、君が両親の仇を討とうと思っているのなら止めておけ!」
その口調は冷淡だった。
「でも……」
口籠もる龍一。
「君は能力者かもしれないが、実戦には向いていない」
「……わかっています。でも、せめてぼくは自分の出来る事で協力したい。ぼくだけがその男を見たんです。顔は見なくても、闇の風なら識別出来る。だから、お願いします」
龍一は懇願した。ルドルフは少年と結城の顔を見比べ、それから静かに口を開いた。
「ならば、ハンスと組んでもらう。そして、ターゲットを発見したら、君はすぐに安全な地帯に避難し、攻撃には加わらない。その条件を呑むなら許可しよう」
「ほんとですか? あ、でも……」
少年の瞳が不安そうに揺れる。
「待ってください」
その提案に難色を示したのは、結城だった。
「大丈夫です、先生。ぼく、やれます」
龍一が不安を振り払うように言った。
「その前に一つ質問させてください」
結城がルドルフに向けて言った。
「弟さんの実力については僕も評価しています。しかし、龍一と組ませるにしても、彼自身の人間性についてはどうなのでしょう?」
「奴は独自の信念を持っている。正義感も強い。俺は、今回の任務を遂行するための適任者だと考えている」
そう言い切ってから、長身の男は僅かに唇の端を上げて続けた。
「気紛れを起こさなければな」
「なるほど」
結城が厳しい顔をする。
「信用出来ないか?」
「いえ」
そう答えながらも二人は微妙に視線を逸らした。
「その考えは悪くない。人間である以上、たとえ仲間であったとしても完全に信用しない方がいい」
「貴方の事も……ですか?」
龍一が訊いた。
「そう。俺の事もだ。ハンスにもそう告げてある」
沈黙が続いた。そして、壁に掛けられた時計の秒針が半周回った時、男が言った。
「チームは3人編成を取る。つまり結城、君はハンスのチームで活動してもらう。その方が作戦がスムーズに進行するだろう」
「わかりました。そういう事ならば……。僕も協力させてもらいます」
結城は緊張しながらもやや安堵したように龍一を見た。
夜のパトロールも3日が過ぎたが、何の成果も得られなかった。メンバーは殆ど寝ずに働いていた。ハンスも朝のトレーニングを始め、日中も井倉や子ども達のレッスンをしたり、客の相手をしたりと活発に動いていた。
そして、日曜日の朝。トレーニングから帰って来たハンスが台所に来て訊いた。
「美樹ちゃん、僕のベティー人形の首知りませんか?」
「ちゃんと探したの?」
今日は友人が来るというので、彼女はその準備をしていた。
「どこにも見当たらないです」
「うーん。困ったわね。今、ちょっと手が放せないの。あとで探してあげるから……」
彼女はケーキの粉を混ぜていた。
「わかりました。でも、ちょっと残念だな。美樹ちゃんのお友達に、僕も会いたかったです」
「あら、理恵子達なら、こないだ紹介したじゃない?」
「そうでした。でも、僕も会いたかったです。今日は、キャンディーも来るですか?」
彼女を覗き込んで言う。
「二人だけよ。どうして?」
彼女は手を止めて彼を見た。
「実はね、僕こないだ、3人でいるとこ、見ちゃったですよ」
くすくすと笑いながらハンスが言った。
「そうなんだ。まあ、進ちゃんと静って元同僚だったしね」
美樹がそう答えた時、仕事の電話が掛かって来た。彼女は鍋の火を止めるとその電話の応対を始めた。
リビングでは、井倉が、ハンスに課された曲の譜読みをしていた。その足元を掠めるように、黒猫が駆けて行った。見ると人形の頭のような物にじゃれている。
「あれってもしかして……?」
井倉はそれを取り上げて見た。
「ハンス先生が探してた人形の頭じゃないか。いったいどこから持って来ちゃったんだい?」
黒猫と人形の大きな目がじっと彼を見つめる。井倉は背筋が寒くなるような気がして、思わず人形を持った手を下ろした。
「あ! それ。僕、探してた奴です」
丁度リビングに入って来たハンスが言った。
「リッツァがじゃれてたんです」
ハンスがそれを受け取ると、黒猫がそれを返せと伸び上がった。
「駄目! これは僕のですよ」
ハンスが人形の髪の毛を持って揺らす。そこに白い猫のピッツァも来て一緒に鳴いた。
「僕の物を欲しがるなんて悪い子ですね、リッツァにピッツァ。言う事聞かないとおまえ達も首を挿げ替えてしまうぞ」
人形の頭をポケットにしまうと、ハンスは2匹の猫を抱き上げて言った。
「え?」
井倉は凍り付くように彼を見た。一瞬、2匹の首が入れ替わったように見えたからだ。井倉はさり気なく視線を逸らした。その先にあったのはアルファベットの積み木と首の取れた人形の胴体。そこに、猫達を下ろしたハンスがやって来て首をはめた。
彼がリビングを出て行くと、井倉はそっとその人形の頭に触れた。その首はしっかりとはまっていて抜けなかった。
「じゃあ、先生は故意に外したのか? でも、何故?」
猫達はソファーの上で互いの身体を舐めていた。青い目の人形は目の前の彼を見ていなかった。
「井倉君? どうかしたの?」
美樹が来て訊いた。
「いえ、ちょっとこの人形が気になって……」
「ああ。首見つかったのね。ハンスってばすぐに物を壊しちゃうのよ。お掃除する時、気を付けてね。おもちゃの部品が落ちてるかもしれないから……」
「はい」
「子どもって何でもすぐに壊したがるのよね」
そう言って彼女は笑った。
「はあ」
井倉も曖昧に笑う。もうすぐ客の来る時間だった。
(もう大丈夫なのに……。ここにいれば安心なのに、きっとまだ神経が敏感になってるんだな、僕……)
井倉は、人形に怯えていた自分に対し、自嘲の笑みを浮かべると、キッチンに向かった。
その日の午後、ハンスはアルモスと海辺の画廊を訪れた。会場には、かなりの人が来ていた。
「へえ。なかなかいっぱしじゃねえか」
画廊の造りを見て、アルモスが言った。
「絵を見てやったら?」
ハンスが笑う。
「ああ。この水仙なんかいいね。ナルシスト振りが良く出てる」
「ナルシスト? でも、水仙は水仙でしょう? 僕にはきれいな花にしか見えないけどな」
会場にあるのは花の絵ばかりだった。
「絵ってのはそいつの性格が表れるからな。ほら、そっちのヒマワリを見てみろよ」
アルモスが言う。
「素敵じゃない。まるで炎みたい……」
「そう。花から透けて見えるのは炎に焼かれる闇の顔。どいつも苦痛に歪んだ顔してら」
「え? 死んじゃうの? ヒマワリさん達、可哀想」
ハンスが額の中の絵を見つめる。
「あ、バウアーさん、いらしてたんですか? わざわざありがとうございます」
武本が来て声を掛けた。
「こんにちは。彼は僕の友人の……」
ハンスが言い終わる前に武本が言った。
「アルモス・G・ガザノフ画伯!」
「ああ。そうだが……」
男はぶっきらぼうに答える。
「お会い出来て光栄です。ずっと憧れていました。まさか、ここでお会い出来るなんて……。まるで夢のようです」
近くにあった秋桜の絵を見ていた婦人達が振り返ってこちらを見た。
「俺は、こいつに誘われたから来ただけだがな」
アルモスが無愛想に言う。
「わかっています。画伯である貴方がわざわざ僕なんかの絵に感心を持つなんてあり得ません。でも、この幸運を喜ばずにはいられないのです」
頬を上気させ、嬉しそうに言う武本の言葉は、とても偽りとは思えなかった。
「ねえ、あなたが一番だと思う絵はどれ?」
ハンスが訊いた。
「それは……ちょっと地味なんですが、この月見草の絵です」
武本が示したのは、夜に咲く白い花。駐車場の片隅で、ぽつんと咲く花とビルの隙間から見える三日月。華やかさはなかったが、陰影のコントラストが映えていた。
「夜にだけ咲く花か」
アルモスは、じっとその花を眺めて言った。
「どうして夜しか咲かないの?」
ハンスが訊いた。
「それは……ただ一人の愛する人を待っているからなのではないでしょうか」
はにかむように武本が言った。
「へえ。僕もだよ。共感するな。僕、白いお花が大好きなの」
ハンスが言う。
「そう。白い花……。でも、この花は色が変化するんです。白からピンクに……そして、夜明けになると散ってしまう。そんな健気さが僕はたまらなく好きなのです」
「花言葉は?」
ハンスが訊いた。
「無言の愛」
武本が答える。
「あなたも恋してる?」
「さあ。僕は自分の感情がどうなのかよくわかりません。でも、素敵な恋が出来たらいいなって思ってます。貴方のように……」
ハンスは帰り際に買った寄付金付きの絵はがきを見ながら歩道を歩いた。
「彼、悪い人ではなさそうなんだけどな。この葉書の売り上げだって難病の子ども達の治療のために使うって言ってたし……」
「ああ……。だが、おまえの周りには得体の知れない野郎が多過ぎる」
アルモスが気に入らなそうに言う。
「そうかな? 僕は結構楽しんでる」
ハンスは縁石の上を歩いてバランスを取る。
「でも、聞きそびれちゃったな。能力者の子どもを保護してるって話。会場にはたくさん人がいたし……」
「焦らなくてもそのうち機会は来るさ。ところで、俺が運んでやった子猫達は元気か?」
「うん。それに新しく来た男の子も……」
ハンスは途切れた縁石から飛び降りて言った。
「ふん。新しい猫でも飼ったのか?」
「人間の男の子だよ。井倉優介って言うんだ。僕のピアノの弟子。当分は家にいるから、そのうち会わせるね」
「はは。人間だって? おまえも物好きだな」
柵の向こうの公園で、母親が子ども達を遊ばせている。
「何でさ? 僕は好きだよ。可愛い子。男の子は一人来た。出来れば女の子も欲しいな」
「おいおい、どっかからさらって来ちまったんじゃないだろうな?」
声を潜めてアルモスが訊く。
「違うよ。落ちて来たんだ。だから、僕が拾ったんだよ。本人にもその親にも許可はもらってあるから大丈夫。井倉君は二十歳で、もう自分の意思で決められる年だからね」
「何だ。じゃあ、いっぱしの大人じゃねえか」
「ユーゲント。彼はまだ、括られているんだよ」
空の向こうに旗はなかった。
「そんじゃあ、解き放ったら、どっかに飛んでっちまうかもしれないぜ」
画家が手にしたスケッチブックには、白紙のページが連なっていた。その一枚に木漏れ日を透かす。
「その時には、また別の鎖を用意するさ」
ハンスが再び縁石に跳び乗る。一瞬、白紙に大きな影を落とした。
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